昭和42年8月17日 朝の御理解


 待たれるとも、待つ身になるなと言うような諺がありますね。待たれるとも待つ身になるな。待つと云うことは非常に切ないもの、同時に落ち着かないもの、いらいらするもの、落ち着かないいらいらする。これではおかげが受けられない。待たれるとも待つ身になるなと、待たれるとも待つ身になるなと。信心をさせて頂いても同じことが言える。信心させて頂いておっても、信心が非常にじゅつないものになっておる人がある。信心しておらなかったら、暫く例えば朝でも例えば眠られるのにこんなに毎日毎日お参りせんでよいのに、お金もいらんのに。ね、信心が重荷になっておる。信心が重荷になるというようなことではおかげは受けられない、ね。おかげは受けられない。本当の信心に依る幸せというものは頂かれない。皆さんどうでしょうか。
 十日に一辺づつばっかりになる。月参りばっかりだに参る人もあります。信心のそれぞれの過程でございますから、それかと言うて毎日こうやって朝参りをしたり、人達が熱心で楽しう参って来ておられるというとそうではない。本当におかげを頂きたいばっかりです、このことが願いたいばっかりにお参りしている。 これではおかげが間のあたりに見えて來ればなんですけれども、見えないと信心が段々と重荷になって参りまして、もう私どんは信心が出来んということになってくるのです
 信心はどうでも、その信心は当然させて頂かなければおられない信心。信心が身に付いて行くことが楽しうてたまらんという信心。有難いと思う信心。信心の稽古をさせて頂いて信心が身に付いて行くことが有難いのであり、楽しいのでありと言う様にです、なってられますときに信心は成程、眠たくもある。時間もかかる。お金もかかる、けれども、お金がかかることもそこにばっかりの云うたら、じゅつなかろうと思われるというような修行もそれが楽しうなって來るから不思議である。そこに私はいわゆる本当のおかげを頂くようになると思います。信心がですね、重荷になっておりますとですね、すぐ迷うです。なしかと云うと重いものですから一寸楽な話をするともう置こうとする信心、すぐ迷う。人間誰しもきついことより楽な方が好きなのです。ですから楽な方へ走ろうとする。楽なほうへすぐ、いわゆる堕落をする。信心の妙に触れることが出来ません。まさかの時には天地金乃神と云うに及ばぬ。金光大神助けてくれと言えば助けてやると仰る神様ですから、おかげを願わんおかげを願わんと云うても、おかげは当てにしとらんと云うても、矢張り私共は切実に願わなければならんことも沢山あるから、まさかの時には金光大神一心にすがってそこにおかげを頂いて行くというのでございますけれども、それは何時ものではない。普段は矢張りここに信心の稽古に來る所と仰る。信心の稽古に通わせて貰って稽古をさせて貰う。信心が身に付いてゆく、分かってゆく。それが楽しうなってゆく。おかげはまだだろうか、おかげはまだだろうかと云う、いわゆる待つ身になると切ない。ですから、一つ待たれる私共の信心の本当の信心を分かろうとすることを目指すと云うならば、神様から待たれる様になる。先生から待たれる様になる。あの信者がおってくれるから、あの氏子がおってくれるから、あの氏子がもう一段信心を進めてくれるというように神様の御期待を受ける様になる。それが一番に分かってくるのである。自分の心に分かってくる。そこに私の信心の楽しさと云うものが出来てくる。
 皆さんどうでしょうか。期待されておる私。そういう様なものを感じることが出来る。それを感じておられるならあなたの信心が楽しうなっておる証拠です。けれども、期待されるのではなくて、こちらが何時も期待しておる。何を期待しておるかと云うと何時もおかげばかりを期待しておる。どうも信心と云うものが、特に日本人は昔から悲しい時の神頼みと云うてから、その悲しい時に神様に頼むことが信心のように思い違いをした思いをもう、神様をそういうようなものだと思っておる。信心とはそんなものだと思っておる。
 信心は命なのだ。命以上のものなのだ。そういうような信心が過去に於てなしてきた、形もあろうけれど、それは一部の方達だけであって、只信心とは兎に角すがれるものよりも、頼むものと思っている、ねえ。本当言うたら、信心はですね、命なのだ。私共本当もっと言うならば命以上のものなのだ。ねえ。自分の信じる宗旨宗派の為に自分を犠牲にして行くといった様な人達も様々な宗教の中にございましたですねえ。キリスト教、踏み絵なんかのあった時代なんかはそうでしたねえ。自分の信ずる神様がですね、ために自分が死んで行くぐらい、死んでいくことを有難いと思って信心していくこと沢山あります。これなんかもう信心はその人の為にはもう命以上のものになっておったことになります。
 金光様の信心はああいうそのような、むごたらしいことはありませんですよね。何故ってそれはどこまでも天地の親神様が対象のものですから、それを金光大神の信心に依って分からせて下さる。お取次を頂いて行けれるという信心ですからね。どこまでも天地の道理に基づいた信心ですからね。そういう惨たらしいことはございません。けれどもいよいよの時、私共信心は私どもの命以上だと言える、思えられるだけの信心を身につけて行くと信心がやっぱり誰が何と言うても迷いもしなければ動きもしない。もしそういう水を差すような人があったらいよいよその信心は燃え上がっていくというように、昨日も熊本教会の総代三名お参りしておりました。親先生とも私共熊本の金光教九州大会にここから参加した時、たまたまインタビューした時に、ここの話を聞かせて頂きました。これで二回目のお話を頂きました。本当にお話には聞いておったけれど、金光様の御信心の中にこういう生き生きとしたお広前があるとは知らなかった。話にゃあ聞いておったけども、半信半疑お参りしたら成程合点がゆくようになり、いよいよ今日の御大祭を拝まして頂きましてから、その感を強うしましたと話しておられます。
 桂先生が或時に切実に感じられる難儀な問題を神様に一心不乱に願うておられる。どうぞおかげを頂かせて下さい。でないと桂松平の顔が立ちません。どうぞおかげにして下さい。私共もそれを感じることがありますね。けれども私の顔が立つ、私がそこにおかげを受けると云うのではやっぱり本当じゃない。
 したら神様から松平汝が願うことは今でも神がおかげにしてやる。お前が切実に願うなら他のもんじゃあない、他の氏子願うんじゃない。桂松平が願うのであるから今でもおかげにしてやる。けれども次に御心眼を下さった。お知らせ下さった。今松平汝が願うておるおかげはちょうどこのようなものであるぞと云うて葱のお知らせを下さった。けれどもここんところを苦しいであろうけれども、ここんところを信心で気付かせて頂いたらこの様なおかげになるぞというて、次には御祈念なさっておられる前にですね、一本の竹がすくすくと伸びて行って天井も突き抜く様な勢いで竹が伸びて行くところを心眼に頂かれた。・・・?ですからすぐに悟られました。私の小さい心、小さい感情、どうぞどうぞと云うてお願いを致しておりましたが、本当に氏子の願いが浅はかなことが判りました。どうぞ葱のおかげは要りません。どうぞ竹のおかげを頂かせて下さいと願われた。願い、願いが分かったということです。
 葱のおかげなら今でもやろうと仰っる。葱というのは苦労してない。ところが竹と云うものは節はんたんで節がすくすく伸びて行く。だから竹が色々な細工に使われてどの様なことでも使われるようなものになる。私共もどのような御用にもお使い回しが頂かれるようになれるような私共に、云うなら神様から期待される私、そういう信心を願わなければならない。私もそれによく似たお知らせを蒙ったことがございます 
 私も北野の教会にお話頂いておる、椛目の開ける前の話でした。私がお話に参りますと中村さん達はもう朝もなかれば晩もないない、夜どうしのように話をしてる時代。一生懸命その話を聞いて貰った。けれども話を聞いて貰った、けどもその話の合間合間に私の心に感ずる難儀があったのですね。合間合間に神様に願うのですよ。このことがおかげになりますようにと云うて、一寸話の合間にそこのことをお願いしておりますと、神様からお知らせを頂くのです。それが大根です、お三宝に綺麗に洗い上げられた大根が三宝に一台に、綺麗に洗い上げた大根が三宝に、洗い上げたごぼうが三宝にお供えしてある。そして私にどちらを取るかと、私は考えた。こりゃあ私の願っていることは大根を願っておるようなものだ。大根と云うのはすぐ大きくなる、苦労していないわけなんです。ごぼうの方は長くこう土に入ってしかも苦労しているでしょう。真っ黒しているごぼうは。大根はしてない、苦労してないこの大根を求めておる。おそらく私が大根がよいと云うたら大根を下さったかも知れません。云うなら私も一生懸命願っているのだから、けれども私は考えた。私が辛抱させて貰えばごぼうと云う野菜は長う苦労しておるから長ごう修行しておるから、どのようなことにも使われる。御祝儀も使われる。御法事ごとにも使われる。日常の茶飯事にもなおさら使われる。こりゃあ広う、深う使い場所を頂けば、おかげ頂かねばならんと云うのが私の願いでもございましたのですから、すぐそれが分かった。いわゆる大根のおかげを御願い下げた訳です。そうして云うならば、このような道が開けて来たのですよ。
 私がその生き方をとっておかなかったら、現在の道は開けてない、椛目には。目先目先の大根を桂先生のような葱のと云うようなおかげに終始しとったら、絶対自分も助かり人も助かりというような筈がないです。だからお互いの願いが葱やら大根やらのことを願うておられるような信心じゃないかと云うことなんだ。私が言いたいことは、そして願い?なさいということ。ただし、まさかの時にはと仰る。ここ一番助けて貰わねばと云う時があるのですよ。例えていうなら、さわみつさんの息子さんが建築に手伝いかなんかに出られて落ちられてからもう何日になられますかねえ、「九日になります」落ちられて九日続いておられます。意識不明九日続いております。初めの間は堤さんから毎日お届があった。清さんから毎日お届があった。自分達お嫁さん病人のところへ付きっきりなのです。ほいで堤さんから、あんたが今付いとったってどうちゅうことも無かろうがの、お参りしておすがりしなさいというて二、三日お参りになっておられます。昨日もお届なさいました。それは親の情だと思った。
 親先生もう一ぺん息子を助けて下さい。親の私の命を縮めても、どうぞどうぞと願われるのです。こういう切実な願いがあるのです。そういう願わなければならない時があるんです。それこそ、一番大事なものは命だ。自分の命でもそれが三日目にその気持ちになられた。ね、どうぞ私の命を縮めてももう一ぺん息子をこの世に生の、よみがえりのおかげを頂かせて下さいと云う願いをなさいました。そういう例えば、切実な願いだったけん、そげんでよかと云うのはおかしいですね。けれどもです、本当にそのおかげなんか実を云うたら、問題じゃあないというような願いを問題のように思うてここのところに終始しておる人がある。そういうおかげに終始してから、五十年間六十年間信心が続いたところで、それはいつもごぼうのじゃあない、大根のおかげであり葱のおかげなのですよ。
 ですから、そこんところをどうぞひとつ聞き分けてです、いわゆる願い分けをして行かなくてはいけません。
 よいお話と分かったらよ願いが、そして神様に喜んで頂けると思われる信心を進めて行くのです。そこにはいわゆる待つ身でなくて待たれる身になるのです。楽です、楽しくなって來るんです、ね。信心はひとつも重荷になって來るのです。信心は重荷はそれでいいのですよ。けれども人がちょっとしますと、ああほんにそうたい、と楽の方へ話を聞くとホット重みをそこへ置こうと致します。人間は誰でも同じ情を持っておりますのですから、信心が重荷になるのじゃあない、信心が有難い。信心が楽しい、信心の稽古をさせて頂いておることが有難いと云う信心ですね。信心の根本的なところを切り替えて、信心にお互いなって行かなければいけないと云うことでございます。  どうぞ。